【交換日記】
70年代のはじめ、私の家族は関西の新しい新興住宅地に引っ越してきた。山を切り開いて築いた町は、太陽の光がまぶしく、高度成長期の中、これほど幸せな環境はなかった。私は新しい町の新しい中学校に転校、毎日新しい友だちが増えていき、楽しい日々を過ごしていた。
2年生の1学期のことである。お昼休みに私は、女の子3人に呼び出された。真ん中の少女がノートを差し出して、「これに日記を書いて」という。そして、横の2人が「ちゃんと書くのよ」と念を押すのである。私には、これが何であるのかが、よくわからなかった。
家に帰ってノートを開けてみると、彼女からのメッセージと前日の日記が書かれていた。それまで日記と言えば正月三が日しか続かず、それも昼食と夕食のメニューしか書いていない私は困り果てながらも、その日の日記を書いて翌日、彼女に渡した。70年代、このような交換日記が流行っていた。
今となっては、私が何を書いたのかは覚えていない。テレビ、友だちのことなど、他愛もないことを書きつづけていたのだと思う。記憶の隅にあるのはオバQがムーミンに「変身」するマンガのこと、ダジャレぐらい。それぐらいしか書けなかった。それでも1日置きに、日記を書いて彼女に渡していた。彼女が何を書いていたのかも忘れたが。
そんな日々が1カ月ほど続いた。
確か、あの日は夏休みの1週間前の土曜日。学校が終って、2年2組の仲間6人で、まだ開発中だった隣の住宅地まで自転車で遠征に行くことになっていた。みんな新しい自転車を持っていた。でも、暑い中、隣町までは行き着かず、近くの小川で遊んでいただけだった。
帰り道、みんなと別れて坂道を汗だくで上っていると、「サトウ君」と呼ぶ声がする。振り向くと彼女が、家の前でホースで水を撒いている。彼女は、とても機嫌が良かった。チョコレートの懸賞で、コダックのカメラが当たったという。1時間ぐらい話したと思う。帰る前、彼女が「写して」と言うので写真を1枚撮った。そして、次ぎの日に会うことにしたのである。「約束よ」と彼女は言った。
次の日も暑かった。大汗をかいて公園に自転車で行った。そして彼女が現れるのを待った。しかし、待てども彼女は来ない。約束したのに…。私はひどくがっかりして夕方、帰宅した。
月曜日、彼女は学校を休んだ。組の友達に話すと、「デートでふられたんか」と笑われた。デートのつもりは無かった。いけないことをしてしまったのだろうか?裏切られたのだろうか?私は良く分からないまま、腹を立てた。彼女は、期末まで、とうとう学校を休んだままだった。
夏休みに入ると、私は田舎の親戚の家に預けられた。父が急に転勤することが決まり、準備のために家がドタバタしていたからだ。関西に戻って来たのは、2学期が始まる約1週間前だった。
帰ると、母が「彼女」が大変な病気で入院していると言う。私は驚いた。彼女のことは、家では内緒にしていたのである。その事がバレたことに驚いたのだ。
そして、日曜日に市民病院にお見舞いに行くことになった。
私は、ことの重大さをまったく理解していなかった。母といっしょに病院へ行くと、彼女の母親が待っていて、私に「来てくれてありがとう」と何度も頭を下げるのだ。
個室にいた彼女の病室に入ると、ベットに横たわる彼女がいた。彼女はもう、ぼろぼろだった。私は驚き、恐怖のあまり、走って逃げたのだ。大きな病院の中を走り抜け、玄関の外で震えていた。
すると、彼女の母親がやってきて私の手を取り、「待って、お願いだから。ちょっとでいいから、そばにいてやって」と言う。そこへ私の母が来て、嫌がる私を無理やり彼女の病室まで引っ張って行った。「ちゃんとやさしい言葉をかけてあげるのよ」といわれ、私は彼女のベットの横の椅子に座らされた。
いったい、どのぐらい病室にいたのかは覚えていない。
それから数週間後、2学期の2週目に私の家族は、父の転勤先のイギリスに引っ越しをした。現地の中学、高校、大学に入学し、卒業した。日本を忘れ、日本語も忘れ、ロンドンでイギリス人とともに働いていた。
12年後、今度は私が日本に転勤になり、関西に戻ってきた。帰国して1年後ぐらいに、中学2年2組のクラスメイトと会うことができた。しかし、12年間も日本を離れていると、話がまったく合わない。共通する話題は、彼女のことだけだった。
「なんや、サトウ君、知らなかったんや」
その時、彼女が、私が転校した約1ヶ月後に亡くなったことを初めて知ったのである。
2年2組は、私が引っ越し、彼女が死んで、笑顔がぱったりと消えた。3年になると受験戦争で、毎日が苦しく、「自転車でみんなで遊びに行った、あの日が一番楽しかった」と、旧友は懐かしがっていた。
友人たちと会って数ヶ月後、私は、かつて住んでいた町に戻っていた。そして、彼女の家の前で立ち止まっていた。ベルを押すと、「はーい」という声が聞こえ、まもなく彼女の母親が出てきた。
私は、何かを言おうとした。でも、何を言っていいのかわからなかった。そして、「すいませんでした」と一言だけ言うと、また逃げ出してしまったのである。
「サトウ君でしょ。待って、お願いだから」
13年も過ぎているのに、彼女の家に初めて入ると、70年代当時の面影があった。彼女の母親は、冷たいジュースを勧め、本棚にあった10冊のアルバムを出してきた。そして、彼女が亡くなるまでの、ことの経緯を話してくれた。
約束の日、彼女は朝から微熱があり、気分が優れなかった。昼食もあまり食べないので、どうしたものかと思っていたら、彼女が思い出したように自分の部屋に入って着替え、これから出かけると言い出した。病気になる前に寝てなさいと言う母親と娘は大喧嘩となり、彼女は、飛び出していったのである。
ところが10分もせずに近くの人が駆けつけてきて、彼女が路上で倒れているから、すぐに来てくれという。暑さの中、失神している彼女を背負って、家に連れ帰り、救急車を呼んだのである。
最初は病因がわからず、彼女はどんどん悪くなっていった。
入院中、彼女はひどくふさぎこんでいたのだが、時々、「勉強用に」と持ってきたノートを見ながら、くすくすと笑う彼女に、母親も最初は気がつかなかった。やがて病状が悪化して、始終眠る彼女の枕もとのノートを手にとって初めて、それが彼女と私が書き綴った交換日記だったことを発見したのだ。彼女の母親は私の母親に会いに行き、娘の病状を説明した。それが、私が田舎から戻ってくる数日前だったのである。
「あの時、サトウ君が『がんばってね』と言ってくれたので、その後、ちょっとは回復して、後数日しかないと言われていたのに1ヶ月半ももったのよ。」
アルバムを見て、みんなから愛され、大切にされて育った彼女を改めて知った。そして、最後のページには、あの土曜日に私が写した彼女の笑顔が飾られていた。
「あの交換日記はね、娘が天国に持って行ったわ」
大粒の涙が止まらなかった。
あれからさらに13年。私は、骨髄バンクへのドナー登録のために秋葉原の献血センターに行った。ひどく寒い日だった。
採血を済ますと、10ccの私の血がトレイに置かれているのをじっと見つめながら、ようやく生きている意味がわかったような気がした。
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白血病などの血液難病は、骨髄移植で治癒が可能な病気だ。骨髄移植を成功させるためには、骨髄提供ドナーと患者さんの白血球の型を一致させる必要があるが、兄弟姉妹でも4分の1の割合でしか適合しない。他人の場合、数百人から数万人に1人の確率である。骨髄には、血液の元ととなる、骨髄幹細胞(造血幹細胞)が含まれている。骨髄液は採取しやすいおしりの腸骨(骨盤骨)から採取する。この骨髄液を患者に点滴によって移植する。骨髄移植治療で患者さんを救うには、より多くのドナーの登録が必要である。骨髄バンクへのドナー登録は全国の指定献血センター、保健所などで行われている。10ccの採血のみで、約30分で終る。
詳しくは(財)骨髄移植推進財団のホームページへ。
http://www.jmdp.or.jp
2001年2月26日発表
続編 「大切なもの」 あとがき
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